楯の会事件(三島事件)とは

三島由紀夫と森田必勝が自決した「楯の会事件」(三島事件)は、まさに「義挙」と呼ぶべきものでした。退廃する戦後日本社会に対し、この両烈士は死を持って諌めたのです。

【義挙】(ぎきょ)正義のために事を起こすこと。義のためにする行為。

楯の会事件を「義挙」とする私たちは、三島由紀夫と森田必勝を「烈士」と尊称します。この両烈士の死は、世の中に大きな衝撃を与え、いまも衝撃を与え続けています。

【烈士】(れっし)気性が激しく節義の高い人。革命や維新などにおいて戦い功績を残し、犠牲となった人物またはその人物の称号。

正式な憂国忌は11月25日ですが、福岡憂国忌は毎年23日(新嘗祭/勤労感謝の日)に挙行しています。

昭和45年11月25日に三島由紀夫が楯の会の学生らを率いて陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省)で起こした事件を俗に「三島事件」と呼びますが、この事件では三島由紀夫だけでなく森田必勝も自決していますので、「楯の会事件」と呼ぶのが相応しいと言えるでしょう。

三島由紀夫の自決(割腹自殺)を小説家の自殺に連ねることは間違いです。芥川龍之介、太宰治、川端康成などが自殺しており、文学的自殺と呼ばれることがありますが、三島由紀夫の場合は戦闘死の一種としての自決です。だから「切腹」なのです。

戦後日本ではよく「生きろ」という言葉が尊重されます。アニメ映画のキャッチコピーになったこともあります。生きてさえいれば良い、どんなに惨めでも良い、という考え方です。死んでしまえば全てお終いと言われます。これは正しいのでしょうか?

命は尊いものです。しかし生きながらえることが全てではありません。誰かの犠牲によって、共同体の危機が回避される、という事例は、人類史上数えきれない程あります。命よりも尊いものがある、三島由紀夫はそう叫んで死んだのです。

福岡憂国忌について

私たちは毎年、福岡憂国忌において三島由紀夫・森田必勝両烈士のみたまに向き合い、恥ずかしくない一年であったかを振り返ります。それは祖国再生のために、存分に戦えたか、という問いです。

私たちは慰霊や顕彰のためだけに福岡憂国忌を挙行しているのではありません。三島由紀夫の精神を受け継ぎ、人生を賭けて行動する誓いを立てるために、その証として憂国忌を開催しています。

福岡黎明社の辻幸男・元代表は「死ぬまで福岡憂国忌をやるんだ」と述べ、その通り、最後まで憂国忌を準備しつつ急逝しました。われわれが受け継ぐのは、そんな辻幸男氏の精神でもあります。

三島事件をリアルタイムで知る世代が減少していく中、いかにして三島精神を伝えて行くか、容易なことではありません。しかし私たちにはそれを伝える義務があります。何よりそれが義挙であったことを、伝えていく所存です。

50年経っても事件の衝撃が薄れることはありません。また、三島文学の魅力は輝きを増すばかりです。三島由紀夫こそが戦後日本最大の人物であると、私たちは確信するのです。日本が戦後体制を脱却する鍵も、三島の思想と行動にあります。

「三島由紀夫がいまの日本を見たら何と言うか、何を為そうとするか」を、私たちは常に考えます。もちろん正解はありません。しかしそうすることで、困難から逃げず、戦いを続けられるのです。

三島由紀夫は天才といわれますが、それ以上に努力の人であり、克己の人です。己を甘やかさない人です。決して困難から逃げず、自分を誤魔化さない人です。簡単に真似はできませんが、こんなお手本が戦後日本にいたことに感謝します。

三島由紀夫と森田必勝が死をとして訴えた宿願はまだ果たされておりません。従って、福岡憂国忌も50回で終わることはできません。世代交代しつつも、継続して参ります。