懸賞檄文【優秀賞】聲を奪われたカナリヤの叫び/聲を奪われたカナリヤ

義挙50周年プロジェクトの一環として公募しました「懸賞檄文」において、厳正なる審査の結果、下記の文章が優秀賞となりました。ここに全文を掲載します。(福岡黎明社)

今年、今まで憲法改正の旗手であった、安倍晋三内閣総理大臣が辞任した。

彼は憲法改正の必要性を理解していたが、その内容は不十分であった。なぜなら問題の解決に「自衛隊の憲法明記」だけでは不十分であるからだ。そもそも自衛隊とは何であるか。警察予備隊から発足し、警察の物理的巨大なものとして権限及び地位しか与えられていない。その権限と地位の貧弱さとは比べ物にならないほどの物理的装備を有する。

しかしながら、彼ら自衛隊は軍事力ではないと本当に言えるのか。また、必要最小限の武力とはどの程度の事を指すのか。多くの歴代の政治家が誤魔化してきたが、まさしく自衛隊は軍事力であり、武装組織であり、暴力装置であり、軍隊である。

日本国民はその事実から戦後ずっと目を逸らし続けてきた。もしくは、自己暗示と自己欺瞞をしてきた。

そして、憲法九条によって自国が守られてきたという神話にすがってきた。その神話はある意味呪術崇拝の如くである。戦前という国家はまさしくこの国権と軍隊の関係性について現代日本とは比較できないほど現実的見地に立っている。「国家を保護し、国権を維持するは兵力に在れば、兵力の消長はこれ国運の盛衰なり。」と軍人勅諭では述べられている。

国家と軍隊の関係性への理解は明治期においては現代日本とは比べ物にならないほど現実的な立場で物事を理解している。

日本国憲法という二重思考。ジョージ・オーウェルならばそう言ったであろう日本の現状。軍隊が自衛隊、軍事費が防衛費、将校が幹部、砲兵が特科。数えれば枚挙の暇がない、これら二重思考の数々。巧妙に偽装され欺かれた言葉の数々。そしてその事実を知りながら、多くの知識人はそれらを見て見ぬふりをする日本の現状。本音と建て前というご都合主義的解釈によって私たち国民自身も思考を停止してしまっている。

日本の保守主義者・現実主義者は冷めた目で「それはそれ、これはこれ」と割り切って考えるが、それは単に現実を見ているではなく現実を追認しているに過ぎない。真に現実を見るならば空文句となりつつある、憲法と現状を照らして現実に即した形に作り直さなければならない。真に憲法を愛し、憲法に殉じたいと考える益荒男は非武装を実践し自身の家に鍵をかけないで過ごせばよろしい。しかし真に日本を愛し、日本に殉じたいと思う益荒男ならば周辺国家の軍事力に劣らぬ強い日本を創っていかなければならない。それが日本を愛し日本を思う者の務めだと私は信じる。

三島由紀夫自害から五十年経ったにも関わらず、現在の日本は一歩も前に進んでいない。むしろ、後退をしていると言ってもいいだろう。

三島由紀夫が予言したように、自衛隊は米軍の傭兵としての着々と地歩を進めている。日本国は未だ憲法の改正を成せず、軍隊の存在を否定している。然るに自衛隊は軍隊ではない何か、として腫物として扱われている。

自衛隊は軍隊ではないと、歴代政権は主張し続けてきた。しかし、誰がどう見ても戦車、戦闘機、護衛艦を有する組織が軍事力でないと強弁するのは無理がある。この世界でも最も汚れなきまっさらな精神を有する子供たちに聞いてみるがよい。まさしく自衛隊は軍隊だと言うであろう。

子供は私たち大人と異なり自己欺瞞も自己偽騙もしない。この自己欺瞞と自己偽騙から目覚めるときこそ、日本が目覚める時と私は信じた。そのためには自衛隊自らが目覚めなければならない、そう私は信じた。

しかしながら、憲法への憤りを抱く同志は僅かなばかりで、大多数は無関心であった。自衛隊員は皆、憲法改正は自分の領分ではなく自分達は命令一下動くしかできないと言う。まさしく魂の無い巨大な武器庫に成り下がってしまった。米国の傭兵に文字通りなってしまった。米国の要求があれば、遠く外国の地で給油活動もし、駆け付け警護も実際にするであろう。しかし、これは自衛隊自身が自己の活動領域を拡大するために自身である意味望んだことだった。これが、政治家の米国のご機嫌とりに便乗する形で活動領域を済し崩し的に広げてきた真相である。

この済し崩し的活動領域を広げてしまったことこそ、最も日本国民にとって悲劇的であった。なぜなら、彼らは国のかじ取りという重要な局面において蚊帳の外に置かれてしまったからである。祖国の進路決める機会は密室で行う会議によって奪われてしまった。そのため、知らぬ間に日本は米国と同じ船で未来永劫航海し続けることになってしまった。

日本の保守陣営ですら、日米共同という思考の枠組みに囚われてしまった。もはや米国と協調することは自国の安全のための手段ではなく、前提条件になってしまった。そしてその思考の枠組みから外れた言説は非現実的という断罪を受けるに至った。この代償は大きい。

自衛隊はその使命及び任務について熟成された議論をされず、未だ国民的議論がなされず、政治家は自衛隊を「米国の傭兵」として米国の嬉しがらせのためだけに用いてきた。彼らは国際法的には軍人として扱われはするが、国内においては軍人という性格よりも単なる国家公務員という性格が強い。

これの何たる欺瞞。国内と国外においてのその性格を大きく異にするという矛盾。私達が自衛隊の様々な問題に対して、真剣に議論し考えない限り、自衛隊は国民のための国軍たりえず永久に外国の傭兵という地位に甘んじてしまうであろう。

私は戦後の生まれで、戦後民主主義、自由主義の空気の中で生きてきた。

だからこそ、戦前の方が良いという人の意見は聞いても比較できないのだから優劣は決められないと思っている。そういった現代の空気の中で生まれ育ったからこそ、自称自由主義・民主主義者を語る人たちの言説には耐え難いものがある。

民主主義を語っているにも関わらず、軍隊を敵視するその姿勢。私は真に民主主義を思うならば、金銭によって兵隊を雇うという行為そのものが民主主義を貶めていると考える。軍隊は権力者に奉仕するのではなく、国民自らを守るために存在しなければならない。歴史を遡ってみれば、軍隊は常に権力者の道具として暴力装置として存在した。君主、貴族、それら特権階級が自身の権利を維持するために用いてきた。

故に軍隊は民衆とは最もかけ離れたところに存在した。だからこそ、民衆を支配する側として軍隊はその存在を常としていた。この関係性に終止符を打ったのが国民軍の誕生である。国民軍は初めて大衆の側に立つ存在であり、その誕生がただ単に軍事的に有利という事実に根ざしていたとしてもその国民との関係性については大きくそれ以前の軍隊と異なる画期的なものである。一般民衆にとって徴兵は重い負担であり喜ばしいものでは決してなかった。

しかし、それら負担を負うからこそ参政権への強い要求、政治への関与が国民の最大の関心ごととなるに至った。民衆によって成り立つ軍隊は身分制度を打破し、自由で開かれた社会を創る礎となった。近代国家は徴兵によって生まれた。だからこそ、私は参政権と徴兵は二つ合わせてセットで考える必要があると思う。

義務を果たすからこそ、それに応じた権利の主張が認められるのであり単に権利のみを主張し叫び続けるのは赤子が泣き叫ぶのとなんら変わりない。自らが自ら自身に奉仕する健全な民主主義を育てていかなければならない。

しかし、現実は市場経済に依拠し志願兵制を隠れ蓑にした民主主義の義務が腐敗しつつある。自衛隊は創隊以来志願兵制に拠っているが、当時の情勢下ではとても徴兵制は導入できなかっただろう。

故に日本の戦後民主主義は義務を負うことすらせず権利の主張さえすればいいのだという誤った観念と共に定着をしてしまった。戦前もある種民主主義が定着しつつあったが、軍隊の性格は天皇の軍隊という意識が強く政府も天皇の支配の維持機構の一つにすぎなかった。そして日本人は敗戦によって初めて君主のために政府ではなく国民のために政府をもった。

しかし、そこで生まれた新たな国家は国民主権を理論づけられていたが、そのもっともに基礎にして根本なる徴兵・国民軍という要素が欠落してしまった。民主主義の原点にして参政権のよりどころとなる義務。だからこそ、日本人は政府とはただ単に国民に様々なサービスを提供してくれる一事業者として見なしてしまっている。

悲しいかな、政府それ自体も私たち国民の血肉によってできているというのにも関わらず。税金という負担さえ払えば何も干渉をされず何も奉仕する必要がないと思っている。政治に関与するならば私たち国民は徴兵から逃れようとしてはだめなのである。私達が義務を負うのは権力者のためではなく、同法を愛し、家族を愛するが故である。徴兵とは血によってなされる愛情表現である。

私はこの日本が真に目覚めるには国民軍を創立するしかないのだと信じている。

国民と自衛隊の結びつきが弱いからこそ、自衛隊の議論は国民的議論たり得ず、唯々政治の汚れ仕事を負わされてきた。自衛隊をただの便利屋・米軍の傭兵の役割を負わせてきたのは過去の政治家たちの責任である。国民的議論がないのは身内に入隊者がいるものが少なく、自衛隊入隊が声を大にして言える社会ではないからだ。

だからこそ、自衛隊は国民のための軍隊としてではなく一部の政治家の都合で都合よく利用され続けている。真に日本のための組織を目指すのであれば、自衛隊を米国の傭兵ではなく国軍としての地位を確立しなければならない。

そのためには、何度も言うように日本は徴兵制を導入しなければならない。この徴兵の意味は過去の軍事力の強化という意味合いとは全く異なる。むしろ、民主主義を強化するために必要なのである。日本の将来の進路が米軍とともにで本当にいいのか。このまま、一部の人間に軍務を押し付け自分自身は部屋でパソコンをいじりポテトチップスを食べながら社会の不満しか言わない、そのような社会であって欲しくない。

コロナウイルスの蔓延により影響を受ける層と全く受けない層との階級の違いが改めて浮き彫りなってしまった。

人間は生まれながらにして不平等である。生まれも、出生地も、親も、自身の才能もありとあらゆるものが平等ではない。しかし民主主義はそれら不平等という現実を考慮せず、全ての人間に平等の権利を保障する。ならば、ありとあらゆる階級が一緒の釜の飯を食い、そして笑う共通の世界が必要である。もしそれが無ければ、階級に価値観が異なり偏狭な思想に陥ってしまうだろう。

決して交わることのない階級が交わる唯一の接点・それが軍隊の真の存在意義である。金持ちの子も貧乏人の子も等しくまずい飯を食うそれが、様々な社会を知るきっかけにもなり得、ひいては、民主主義の価値観において最も重要な寛容の精神の基礎となり得る。

この現在のコロナウイルスによって分断が深まりつつある世界において、様々な階級が交わる場所こそが今最も必要なのではないかと私は信じる。

(編注:読み易いように改行を追加しました)

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