懸賞檄文【審査員特別賞】愛国運動の停滞を嘆き、変革を訴える/九十九晃

義挙50周年プロジェクトの一環として公募しました「懸賞檄文」において、厳正なる審査の結果、下記の文章が審査員特別賞となりました。ここに全文を掲載します。(福岡黎明社)

私は社会変革を志す愛国運動の停滞を嘆き、変革を求め訴える。

三島由紀夫氏は命を賭した「檄」で自身が創設した楯の会を自衛隊の弟分だとしながらも、その自衛隊に対して「忘恩的行為」と思われるような挙に出たのかを「自衛隊を愛するがゆえ」であるとした。三島氏は、「天皇を中心とした日本の歴史・伝統・文化」すなわち先人の遺産を守りゆく存在こそが「日本の軍隊の建軍の本義」だと確信しているからこそ、永遠にアメリカの傭兵となった旧軍の末裔達に「真の日本人」として国難にあっては神風を吹かしてきた武士の魂を奮い立たせ、万感の思いを胸に決起して欲しかったのだと、私は感じ取った。

その檄文に続くものを紡ぐというのは、当然ながら容易ではない。インターネットの発達と相まって、会ったこともない他人に対していとも簡単に傷つける言葉を発信できてしまう現代、「言葉」の持つ意味を軽く見てしまいがちな世代に属する私のような浅学非才の未熟者が「命をかけて」と覚悟を決めたかのようなことを言っていたとしても説得力があると思えない。また、出しゃばったことを言うのは生意気で、無礼だったのでないかという葛藤が消えることはないと思う。

しかし、折角の機会である。あえて申し上げさせていただくならば、我々は我々の国家と遺産を死守するための戦いを継続するほかないということだ。そのためには我々は旧態依然とした時代遅れの思考回路から脱却する必要があるということも声を大にして申し上げたい。

現在、街頭には明治維新や二・二六事件になぞらえてか演説や講演、はたまた酒の席で「今こそ令和維新断行だ!」などと勇ましいことを仰せになる方を見かけることがある。私は、何をもってして現代における「維新断行」を成し遂げたとするのか、とても疑問に思うし、昨年まで「平成維新断行だ!」と勇ましく仰せになっていた方々を思い出すと平成維新はどこに行ったのだと軽く憤りすら覚える。そもそも、我々の勢力を全て結集させたとして、明治維新の時のような武力による倒幕(政権打倒)はあまりにも非現実的な夢想に過ぎない。これも時々見かけるが仮に「一人一殺」を実行したとしても左翼勢力の方が圧倒的に人数も多い。こちらが先に根絶やしにされてしまうだろうし、そのようなことを大声で言う者がいざという時に本当にやるかも疑問だ。

明治維新は世界が力を求めていた時代の流れで起きている。流れる時代のうねりを極限まで大きくした維新の志士たちが最先端の武器という「力」を背景に、日本の先頭を走り抜けたからこそ成功したのだ。民衆も欧米列強と与する勢力に対抗するために天皇を中心とした、すなわち「錦の御旗」の下に集わねばならないと当事者意識をもって呼応した。

しかし、大東亜戦争の終戦から時間が経過した昭和四十五年、自衛隊の決起を求めた三島氏の檄を聴いた自衛隊員たちは感涙したのではなく、三島氏に野次を飛ばした。当然クーデターを起こすこともなかった。三島氏にとどまらず、戦後の愛国者たちは、戦前から変容することなく思想と信念に基づき、数々のテロを敢行してきた。

だが、世の中は我々の希求するものとは逆方向に進み続けている。それは、我々の声が国民に届いていないことに他ならない。三島氏の檄文にある「憲法改正」も安倍内閣が総辞職した今、新たに発足した菅内閣が重点課題として真剣に取り組まれるとも思い難い。我々、時代を切り拓くはずの運動が旧き時代に取り残されているという事を認めなければならないだろう。明治維新とは、求めるものも、求められるものも変わっているのだ。

我々の歴史では忘れることはないであろう三島氏の義挙も国民の目を通せば「右翼作家のテロ事件」だ。先般公開された映画『三島由紀夫VS東大全共闘』の反応を取ってみても、芳しいとは言い難い。三島氏の功績を顕彰する各地の憂国忌も来場者の多くは、高齢化が進む何かしらの運動関係者であり、これらに伴い、監視のために訪れた公安警察当局だ。

反面、我々の不俱戴天の敵である極左過激派は国民を巻き込む表立ったテロ活動から遠のき、選挙を通じて地方議会に浸透している。議員という一定数以上の国民から支持された民意という結果を金看板に、権力を持ち、公金によって、反日本・反皇室運動を展開している。上皇陛下(当時皇太子殿下)と皇太后陛下(当時皇太子妃殿下)が沖縄に慰問のために行啓された際、ガラス瓶などを投擲したことで逮捕・収監されたテロリストも、いまや沖縄県名護市で社民党などから応援され、同市議会議員を連続3期にわたり務めている。議員の立場を踏み台にし、現地の反基地活動や反政府活動に勤しんでいるのだ。また、昨年の統一地方選では中核派の公然活動家もまた、議員としての地位を築いている。

悲しいことに三島氏の遺した檄文以上に日本はひどい状況だと言わざるを得ないだろう。反共の理念を忘れ、反日がテーゼに取って代わられた韓国、北方領土に対する姿勢を強めるロシア、尖閣諸島をはじめ海洋進出に打って出ている中国、ミサイルを飛ばし、わが国の国民を拉致した北朝鮮。隣接する国だけでこれだけの問題が山積みだ。

さらに、自衛隊がアメリカの傭兵になるにとどまらず、駐留しているアメリカ軍関係者が日本の婦女子に対して暴行する事件が社会問題どころか、日常茶飯事と化している。合衆国憲法による「自由の兵士」であるはずの彼らが性犯罪という蛮行に出ている。これを、アメリカがわが国を相互主義に基づく条約を締結した同盟国としてではなく、軍隊を駐留させ安全を担保せねばならない未熟な保護対象として認識しているのが推し量って考えるとみえてくる。さらに本来は自国の防衛を率先して取り組まなければならない国民がそれを支持し、受け入れてしまっているのだ。馬鹿げているとしか言いようがない。わが国の国土を守るのは日本国民にだけ許された名誉ある特権ではないのか。そうは言っても周りを敵性国家に囲まれ、頑なに「対米自立」を叫べば、どうなるのか。大東亜戦争と同じ構図になってしまい物量に押しつぶされてしまうことは地図を見れば一瞬で理解できることである。正面の敵は戦略的観点から絞られるべきだろう。

今回、私は生意気ながら運動の中にいる諸先輩、同輩、後輩たち、そして自分自身に対する自戒も込めた檄文とした。現代日本に訴えたいとありながらも国民にあるのは政治不信であり、世に蔓延るのは無関心だ。その原因は私たちの停滞である。魅力を失った運動に未来はない。我々の運動が日本を再興させると誇りを持って語るのであれば、旧来の陋習にとらわれて築き上げたものをただこなし、形骸化させてしまうことなどあってはならない。維新の志士たちのように常に柔軟な発想と、的確な判断力を備え、蚊帳の外に放り出されたその立場から脱却し、再び日本のキャスティングボードを握っていかなければならない。敵側は入念な準備としたたかな謀略で、各地の議会に浸透している。我々は周回遅れのスタートであっても、議会に運動経験者を送り出し、対抗勢力を形成しながらも、その地位を確立させなければならないと私は強い危機感をもって訴えたい。

そして、我々が再び国民に振り向いてもらえた時こそ、初めて我々の尊皇を第一義とする思想や、信条、そして三島氏が最期の瞬間まで訴えた憲法を変えるという悲願を「現代日本に命をかけて訴えたいこと」として、広く訴え、世に送り出し、わが国の数多ある勢力の中で最も右側の席から圧力をかけることができ、社会変革の兆しを冥府の三島氏にも見てもらうことができるのだと私は思うのだ。

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