懸賞檄文【佳作】グローバリズム・新自由主義から国民共同体を防衛せよ/小野耕資

義挙50周年プロジェクトの一環として公募しました「懸賞檄文」において、厳正なる審査の結果、下記の文章が佳作となりました。ここに全文を掲載します。(福岡黎明社)

冷戦は終わった

顧みればこの二十年、われわれは何をしていたのだろうか。権力が自ら大資本の手先となり、自らの国を貶め、財産を売り払い、国民共同体を破壊し、私腹を肥やしていくのを、ただ漫然と見過ごしたのではないだろうか。そう思うたびに忸怩たる思いがこみ上げてくる。

いまだに冷戦時代の常識にとらわれ、敵は共産党と朝日新聞、自民党は味方と思い込む保守派の迷妄には、心底呆れる思いがする。日本人の魂はどこに行ったのか! その眼には現代社会が見えているのか。ソ連はとうの昔に崩壊したのだ。時代は、劇的に変わったのだ。資本主義は新自由主義・グローバリズムに変貌を遂げ、ついに国民共同体にまで牙をむくようになった。資本主義対共産主義の冷戦時代は終わりを迎え、グローバリズム・新自由主義対ナショナリズムの時代が幕を開けたのである。

国家を破壊するグローバリズム・新自由主義

「社会なんてものはない」。

そう言い放ったのは英国首相を務めたマーガレット・サッチャーである。

新自由主義は社会の解体に動いてきた。社会を、あるいは国家を、市場に置き換えることこそがグローバリスト・新自由主義者の目標である。そのために彼らは国家権力の中に巧みに入り込み、「構造改革」と称してグローバル資本優遇、土着的な産業を解体へ追い込んでいく。わが国では竹中平蔵氏が小泉内閣以降暗躍し、さらにその方向性を強めることとなった。

資本主義は利潤追求を是とする思想である。そのため貧富の格差ができることを容認した。その結果、富者が己の富を更に増やすために国家権力と結びついたら? あるいは、一国にとどまらない超巨大資本が誕生し、カネの力で国家権力を自らの走狗にしだしたとしたら? 資本主義はそのことを何も想定しなかった。市場で勝利するにはイノベーションは必須だが、当たるかわからない新たな商品・サービスを開発するよりも、権力と結びつき税制優遇等を勝ち取る方がよりたやすい「勝ち方」である。だがこれを許してしまえば社会はめちゃくちゃになってしまう。こんなものを容認してしまえば、社会はカネこそすべての拝金状態となる。「古き良き時代」は遠くに去り、友情よりも、仕事の誇りよりも、カネがすべての価値を決める下品な時代が到来したのだ。

元来、生産すべきものがまずあって、その生産のために必要だから資本が求められていた。だがもはや現代では主従は完全に逆転し、資本があって、この資本を増大するために何が必要かという観点から生産が後から見出されるようになった。だから資本の増大は相変わらず続いているが、その利益は生産者には降りて来なくなった。そして生産者の仕事は徹底的に分業され、いくら勤めてもニッチな技能は身に付いても、本当に経済的に自立する技能はまるで身に付かなくなっていった。マクドナルドのバイトを何年勤めても、パティを焼き、パンに挟む技術は身に付くかもしれないが、ハンバーガーショップを営むノウハウは永遠に身に付かないのである。機械化、マニュアル化された生産からは人情や地域の輪は姿を消し、自販機のような金銭とサービスのやり取りだけが残ったのである。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」。

三島由紀夫のこの嘆きを、いままでどれほどの人が引用してきただろう。だが三島の嘆きを現代にひきつけて考えている人間はどれほどいるのだろうか。われわれの魂はいつまで資本に翻弄されるのか。ニホンという市場だけが残り、日本社会は消え去るのか。反抗の声が必要だ。

国民共同体を支える草莽の精神

国民共同体を支えるのは民族の不覊独立の精神である。現在の日本は亡国の危機に瀕しているが、亡国とは国土の消滅や国民の全滅だけを意味するものではない。目に見えない民族の魂が失われることをも意味するのである。

かつての村落共同体は精神的絆で固く結ばれていた。仕事はまさしく共同体に「仕える事」であり、共同体はお互いがお互いの面倒を見合い、助け合った。それが資本主義によってバラバラに解体されてしまったのだ。それが、生きることにどこか本気になれない、ニヒリスティックな精神をもたらした。システムが先行し、人間はそのシステムに従属する存在になったのだ。

「共同体を作り直す」。このことを目的に見据えなければ、社会はどこまでも解体されていくのではないか。自分の一身を超えた大いなるものへの参与なくして、現代人の持つ虚しさは解決し得ない。共同体の自治が確立し、その自治体の延長に国がある。それこそがあるべき姿なのだ。そうしたナショナリズムを、近代社会は解体し、政府と大衆ののっぺりとした関係に変えていった。

人間の色を持った国民共同体(≒社稷)を守るべく立ち上がる人々のことを、「草莽」という。

村上一郎は『草莽論』で、草莽とは「自覚ある大衆」であると論じている。草莽はたとえ家に一日の糧なくも、心は千古の憂いを懐く、民間の処士である。こうした草莽には、いかなる権力の威武も金銭の誘惑も通用しない。草むらの陰でひっそりと暮らしつつ、国を憂い、天下のために立つ。こうしたカネも要らぬ、命も要らぬ志士こそ、時の権力者はもっとも恐れるのである。

こうした志士が、現代ではいかに少なくなったことか。志士が守るのは社稷であり、国の大本であるが、時の政権や政体ではない。こうしたことさえ現代人には見えなくなった。草莽の士が少なくなったことも、グローバリズム・新自由主義がのさばる原因となったのである。

民族の生死の基盤への希求と葛藤が、現代人にもっとも欠けているのだ。

三島由紀夫は『檄』で、以下の様に述べた。

「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた」。

愛国者を自認する人が増えてきたが、それは中国、韓国、北朝鮮に強硬な言辞を吐くことにしかなっておらず、真に祖国の風土や文化、信仰、歴史、共同体に想いを馳せることには繋がっていない。あまつさえ愛国の名のもとにヘイトスピーチを囀ずるなど論外で、かの国の「愛国無罪」を嗤うことはできない。政権のうれしがりに乗って、反政府を左翼だとみなしているうちに、ナショナルな基盤はいつの間にか解体されている。政権はもはやグローバリスト・新自由主義者に乗っ取られていると思うべきである。

いま必要なのは、国の大本に思いを致し、真の日本人の魂を胸に国民共同体の為に発言し、行動する草莽の士である。

草莽の士よ、いまこそ立ち上がれ!

日本人の魂が今後も生き残れるか否かの分水嶺は、いまここにあるのである。

▽その他の結果一覧はこちら
50thfukuokayukokuki_report