懸賞檄文【奨励賞】あるべき日本、日本人の姿とは/妹尾純也

義挙50周年プロジェクトの一環として公募しました「懸賞檄文」において、厳正なる審査の結果、下記の文章が奨励賞となりました。ここに全文を掲載します。(福岡黎明社)

1 はじめに

情報ネットワークの加速度的な発展・普及がマスメディアやソーシャルネットワークサービス等による正否の判断がつかない情報の散乱が世の中を蝕んでいる。特に、ソーシャルネットワークサービスを利用した匿名の者達が「正義」という仮面を借り、誹謗中傷を繰り返し罪なき一般市民の命を奪うという日本の新たな社会形態を造り上げようとしている。

社会発展のために作り上げてきた叡智がこのような無法地帯の状況を産むとは誰が予想できただろうか。

特に日本の教育水準の高さが裏目に出てしまっているのではないかと私は考える。日本のあるべき姿はこのようなものなのであろうか。この機会に私の考える「あるべき日本、日本人の姿とは」について以下、述べさせていただく。

2 国家とは

現代日本を語る上で国家というものを整理しておかなければならないだろう。現在の世界情勢は目まぐるしい変化しているが日本人は典型的な平和ボケも相まって他人事として眺めているのではないだろうか。このような感覚を持ち合わせている国民を抱えている国家は国際法上の国家とは言えるが、真の独立国家と呼べるだろうか、否、私はそうは思わない。ただの仲良しクラブである。

イングランドの哲学者、トマス・ホッブス(1588~1679)は代表作「リバァイアサン」において、大前提に人間の自然状態は逃走状態にあると規定した。

ホッブスは、生物一般(ここでは人間とする)の生命活動の根元を自己保存の本能、すなわち他者より優位に立とうとするがそれは相対的なものであり再現がない。すなわち無限の欲望を人間は有してることを示している。

ホッブスの思想を基礎にして考えるに人間は有史以来、群れを為して種の保存を継続してきた。その群れが今の国家であると考えると国家は無限の欲望を有してるいると言えるだろう。

昨今のアメリカ合衆国、中華人民共和国、ロシア共和国等の対外的国家活動は表面上は世界の安定のためと言いながらも正にホッブスの言うところの「万人の万人による闘争」を映し出しているのではなかろうか。

すなわち、現代の国家とは羊の皮を被った狼という様相なのである。

3 翻って日本は

現代の日本という国家はどうであろうか。一般的には太平洋戦争前後(以後、戦前もしくは戦後という)で大きな転換があったと言われている。確かに戦後、戦後では近代国家体制に大きな変化が生じたことは万人の知るところである。すなわち、戦後アメリカ合衆国の属国となり、完全なる独立国家とは言えないものとなった。日本政府は戦後体制からすでに脱却したと宣言しているが、日米安保条約や国内の憲法を中心とした法整備の状況を見る限りでは完全なる戦後体制の脱却とは言えないだろう。

確かに国防予算は年々増加の一途をたどり、着実に防衛力整備をしている。その国家防衛の柱はアメリカ合衆国の軍事力を柱としていることは戦後から何ら変化はないのである。

選択肢として国家が生き残るために同盟を結ぶことは十分理解できる。しかし、同盟とは本来対等であるべきであり、国家の大小は関係ないはすである。戦後から70年以上が経過した今、日本国家、すなわち日本人は思考停止し、先人の知恵と苦労を食いつくし政策を踏襲もしくは言葉遊びによる法の解釈をして今に至っているとしか思えない。とあるアメリカンスクール出身の元外務省官僚が公式の場で「アメリカを裏切ってはいけません。日本はアメリカについていけば何も問題は生じないのです。絶対にアメリカに逆らってはいけません」と発言していました。そのような官僚が存在する国家に果たして日本の未来が造れるのか、否、無理であろう。

その結果が、尖閣諸島や竹島また北方領土における主権を世界に対し明確に主張できない、仮に政府は主張しているといっているところかもしれないが実行が伴っていない。

また、自衛隊は未だに違憲状態であるということを放置したまま、命の危険が生じる危険地域に海外派遣を命じる矛盾。果たしてこれが主権国家のなすべき行為なのか。考えるだけで怒りを抑えきれなくなる。

日本は羊の皮を被った羊なのである。

東アジアには尖閣諸島の領有をもくろむ中華人民共和国、核兵器で恫喝を繰り返す朝鮮民主主義人民共和国そして反日運動を基盤として政権を維持する大韓民国が日本の権益を奪おうと羊の皮を着ながら揺さぶりをかけてきている。今の日本政府は冷静を装っているが所詮は羊の皮を被った羊であり、このままでは食い尽くされてしまうのも時間の問題である。

私が考えるに日本そして日本人は今、目の前にある国内外の問題に対して真剣に受け入れることができない、思考停止の状態なのである。これこそ戦後の国家体制の教育の負の成果なのである。もはや国家としての末期を迎えているとしか思えない。

4 訴えたいこと

今まで私のつたない知識で持論を述べてきたが、訴えたいことはシンプルだ。それは、国民一人一人が真剣に未来を考え、自分が正しいと感じたことに対し行動を起こすことだ。すべてを政治家のせいにするべきではない。政治家は国民の代表であり、国民の思想や知識を超えることはないと考えるべきだ。政治家を鍛えるのは国民一人一人の自己研鑽が必要なのである。国家の危機を他人事とせず、真剣に向き合うことが大切だ。

一人の行動が誰かの心を動かし、やがて大きな波となる。その波が国家を変えるのだ。

時代は変わり、情報ネットワークが発達した今の時代だからこそ一人一人が散乱している情報を精査し正しい情報かどうかを見極める力を持つことが必要となる。そのためにも戦前、戦後の日本に関する国家体制の変化を勉強するべきだ。この小さな一歩が国民に主権国家の本来あるべき姿を想像させ、現在の国家に対して明確な疑問を映し出すヒントとなるだろう。

人間は疑問が生じると行動で解消しようとする知的生物である。だからこそ国家は発展し、現在の社会基盤を築きあげてきたのだ。戦前、戦後の歴史を学べば先人の流した血と苦労を捨てることなど出来るはずがない。

三島由紀夫氏も真剣に国家を案じ、それが共感を呼び、結果は別として波を造ることができた。今の時代こそ三島由紀夫氏のような私利私欲のない思想と実行力を持った人材が求められるはずだ。

5 おわりに

今回、このような駄文を最後までお読みいただき感謝する。今の日本人は心の底では今のままでは国がダメになるのではないだろうか、という不安を抱えているのではないかと私は感じている。しかし、その漠然とした不安を解消することはできないだろう。何故なら、その不安を解消できるのは不安を抱えている当人だけだからである。他人任せにしていてはなにも解決しないのである。

今こそ一人一人がその不安を解消するために動く時であると信じている。私たち自身が私利私欲のない国家の未来を創造できる人材となるよう研鑽し行動していこう。

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