懸賞檄文【奨励賞】不羈獨立論/石原拓海

義挙50周年プロジェクトの一環として公募しました「懸賞檄文」において、厳正なる審査の結果、下記の文章が奨励賞となりました。ここに全文を掲載します。(福岡黎明社)

日本は独立せねばならない。

国家が独立しているか否か、その根拠となるのは、主権の有無である。自国の政府に優越する権力が存在しない、それが主権国家、独立国家というものである。この定義に照らし合わせると、残念ながら日本は真の独立国家であるとは言い難い。一身独立して一国独立す。国民一人ひとりが、不羈獨立の精神を持たねばならない。

維新後の明治新政府が最初に取り掛かったのは不平等条約の改正であった。徳川幕府が結ばざるを得なかった不平等条約により、当時の日本には関税自主権が無く、欧米列強に治外法権を認めていた。これらが国家にとって如何に屈辱的なものであるか、明治の日本人はよく理解していた。そのため、彼らは文字通り、血と汗を流した。結果、それらは廃された。明治の日本人は、欧米人からの、野蛮人であるという烙印に対して、決して甘んじることなく、屈しなかった。

しかし、戦後日本を振り返ってみるとどうであろう。米軍機が墜落しても、日本の警察は一切、現場に立ち入ることは出来ない、米兵が法を犯しても、ほとんど起訴されず、裁くことは出来ない、そういう状況が占領期以来、続いている。これを独立国家の姿と言えるだろうか。

近代日本の民主主義と立憲主義の起源は、明治天皇が天地神明に誓った五箇条の御誓文にある。これを長きにわたり、米軍は踏みにじっている。現行憲法において、天皇は憲法と法律に則り、その国事行為を行う。しかし、米軍にはどちらも通用しない。このことがどれだけ重大なことを意味するか、少し考えれば分かるだろう。このゆがみ切った日米関係を一刻も早く是正せねばならない。

この問題の責任の一端は、われわれ、国民にもある。近年、米軍による不法行為が露見すると、非難の矛先が米軍ではなく、被害者へゆくということが頻発している。異常である。属国精神の甚だしいこと極まりない。特に米軍基地の集中する沖縄に対しては顕著である。最近の事例を挙げれば、保育園の運動場に米軍機の部品が落下した事件がそうであった。被害にあった保育園に、自作自演ではないかなどといった抗議の電話が相次いだという。理解に苦しむ。常軌を逸している。同じ日本人が被害にあっているというのに。それも、この国の将来を担ってゆくであろう幼い子供たちが危険にさらされたというのに。大抵、そういう連中は中国憎しのあまり、アメリカの軍事力にすがろうとする、虎の威を借る狐のような連中である。こうゆう連中がのさばることを許してはならない。真に国の行く末を憂うならば、苦しむ同胞に寄り添い、声をあげるべきではなかろうか。中国の脅威から沖縄を護る必要があるのは当然のことである。ならば、それを米軍に委ねるのではなく、日本人自身、自衛隊が護ればよいだけの話である。

北方領土の返還がなされない原因の一端をこの不平等な日米関係にあるとする見方がある。日ソ共同宣言において、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡すことが確認されたにもかかわらず、平和条約の交渉は進んでいない。それはなぜか、ロシアが返還された北方領土に米軍基地が設置されることを懸念しているためである。加えて、アメリカがそれを望んだ場合、日本が拒否することができないということをロシアは理解しているからである。ロシアは痛いところをついてくる。真の意味で主権を回復せねば、北方領土を取り戻すことはできない。

日本が日米関係を対等にと訴えれば、アメリカは在日米軍の撤退をほのめかす。政府はそれを恐れているのだろう。しかし、もとはといえば、アメリカが好き好んで日本に駐留しているのではないか。出ていきたいなら出ていけばいい。軍事的空白が生じるというなら、日本が防衛費を上げる他ない。人員が足りぬというなら、徴兵もやむを得ない。政治家は国民に誠心誠意を持って、説明すればよい。国民も覚悟を持たねばならない。
無論、複雑化した国際情勢の中、もはや自分の国を自分の国の力のみで守ることは出来なくなっているというのはよく分かる。況や、日々、軍事的膨張を続ける中国を隣国に持つ我が国においてをやである。そのために日米同盟が必要であるという理屈は十分理解できる。しかし、彼らの属国に成り下がってよいはずがない。対等であるべきだ。それが出来ぬというなら、自主防衛の道を模索する他ない。

先の安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げていた。本来ならば、戦後レジームからの脱却と言えば、占領以来の日米体制からの脱却、そして、アメリカの作った憲法からの脱却を意味するはずである。しかしながら、結局はアメリカの従順なる友人であり続けた。国会で与党が3分の2以上の議席を確保していたにもかかわらず、憲法改正の発議もなされなかった。そればかりか、改正案は9条に自衛隊を明記することなどと言い出す始末であった。自衛隊を明記したところで、本質的な解決に至らないことは明白である。

国際法上の戦争を放棄することは当然のことである。そのため、9条1項の規定に問題があると私は思わない。一部の改憲派は「題目で平和が守れるか」と9条1項を問題視するが、国連憲章で全ての加盟国の武力行使が禁じられているのだから、題目がどうこうという問題ではない。国際法を知らぬ者の戯言である。この条項をいじると言えば、周辺国からの反発をくらうのは無理もない。必要なのは、国防軍としての自衛隊の明記と交戦権の否定の削除である。

自衛隊が軍隊ではないと言われる根本的要因は、前身が警察予備隊であるため、その行動の指針がポジティブリスト方式、決められていることしかできない、ということである。自衛隊を一般の軍隊と同様にネガティブリスト方式、つまり、国際法上禁止されたこと以外はできる、ようにすべきである。そのために、軍隊であると憲法に明記する必要がある。撃っていいか分からない、一瞬でも迷いが生じる、そういう状態を放置しながら、政府は自衛隊を海外の紛争地域に派遣している。自衛官の命をあまりにも軽視している。紛争地域の後方支援ならまだましかもしれない、更なる問題は、日本本土に敵が攻めてきたとき、自衛隊がその力を十分に発揮できないことである。普通の軍隊なら生き残れた状況だっただろうが、自衛隊であったために戦死した、そういうことがいつ起こってもおかしくない。そんな中で、国のために戦って死ねと言われているのが自衛隊であり、自衛官である。事態は一刻を争う。

いい加減、もう「戦後」を終わらせねばならない。アメリカから真の意味で独立し、憲法改正が成ったとき、そのとき、戦後が終わるのである。
われわれの主はアメリカではない。天皇である。われわれの使命は、天皇を護り奉り、この国の国土と歴史、文化を後世に伝え、残してゆくことである。

不羈獨立、この言葉に尽きる。
            
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